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そう、命令口調で言うようになったのはいつからだったか。震える体を抱き締めながら、彼女は険しい顔で今日も叫ぶ。
「殺せ殺せ殺せ! 身体を引き裂き、臓腑を引きずり出せ! 鮮血を撒き散らし、惨たらしく首を跳ねよ!」
「それは出来ないな」
感情のまま喚く彼女に、清正は淡々と答える。そうすれば、彼女は瞳に力を入れて睨み付けてくる。
彼女の震えが一層激しくなった。
「何故、出来ぬ! 誰も止めはせぬ! 世に争乱をもたらした、豊臣の家を害した大罪人! 貴様の槍を一突きするだけで、絶命する。あれを悼むものはもう既に世にいない嗚呼誰もだ!」
そこで大きく息を吸った彼女は、赤茶け乱れた髪の隙間から、凛とした眸で言い放った。
「石田三成を殺せ」
そう、彼女は、石田三成は言い放つ。自身を殺せと、かつて大志を抱き豊臣が天下を取るべしと尽力したときのように、その天下を我が物とする内府を討たんとしようとしたときのように。真っ直ぐで純真さを込めた顔で彼女は叫ぶ。
清正にとっては既に聞きなれた言葉であった。彼女だけでない、既に幾つもの声が清正に届く。石田三成を殺せと。
その度に、清正も繰り返す。
「それは出来ないな」
→お題配布先:belief 様(http://be.pandora.nu/)
其の報は小田原城を包囲していた豊臣軍へと、瞬く間に浸透することとなる。清正も陣中に在って、耳の痛くなるような三成に対する痛烈な批判を聴くこととなった。
それから、然程日を置かずして、三成が小田原へ到着した。秀吉との謁見で、さてどのような沙汰が下されるか。諸侯が浮き足立つ中、清正も同様に心中穏やかで入られなかった。
多くの目が集まる中、三成はいつもと変らぬ泰然とした様で、秀吉の前へ進み出る。
「さて、申し開きはあるか?」
秀吉の静かな声が響き渡る。三成は平伏するわけでもなく、唯じっと秀吉を見つめていた。其れは失態に恥じている姿勢ではない。
ふと、三成が口元を緩ませた。
「私はこの戦で多くを得ました」
珍しい、三成にしては本当に珍しい心からの笑みだった。それに秀吉も気づいたのであろう、僅かに目を瞬かせるとそのまま静かに三成の先を促した。
「じゃあ、そういうことで。俺も湯浴みならぬ水浴みしよう」
「は?」
「なっ…」
そう、口にするや否や、半兵衛が三成と同じ池の中に飛び込んできた。しかも、彼は着衣のままだ。派手に上がった水しぶきや濡れた戦装束に気を止めることなく、彼は呑気に気持ちが良いと言い出す始末だ。
「官兵衛殿も来る?」
「行くわけがなかろう」
官兵衛は嘆息する。声にこそ出なかったが、三成も同じ心中だ。ため息の拾や百吐きたいものだ。
それで、卿はどうするつもりだ。ずぶ濡れのまま陣中に戻るつもりか」
「まさか。官兵衛殿が代えの衣装を持ってきてくれるでしょう」
「何故私が動かねば為らぬ」
「奥の手は、隠してこそ真意がある。それを官兵衛殿が知らないはずがない」
「……」
其れは三成には理解できぬ言葉であったが、官兵衛は違ったようだ。彼は何かを言いかけ、そして最終的に唇を引き結んだまま、二人に背を向けた。恐らく、言われるままに半兵衛の装束を取りに向かったのだろう。その様が何とも言えぬほど、不自然であった。
「あ、そうそう。ついでに清正にも伝えてよ。いつもより値引きされてる感じだから、のんびりしてると俺が買っちゃうよ、ってね」
半兵衛らしく茶化したように笑いながら、それでも視線は僅かに三成へと流す。完全に三成を蚊帳の外に押した会話をしているのにも拘らず、このように視線を寄越される訳が理解できずに三成は眉をひそめた。
「承知した。……だが、買うのは卿ではない」
そこで背を向けて歩き出していた官兵衛が振り向く。黒々とした眸が三成を捕らえる。
「この私だ」
その時、冷え冷えとした感情が一気に三成の背を駆け上る。言葉に出来ない嫌な予感を、三成はこの時胸に抱いた。
「此の様な場所で何をしている」
官兵衛の声が凛と響く。それは将である自分が水を浴びていることか、それとも女が戦場にいることに対する不自然さか。どちらにしろ、官兵衛の瞳には濃い非難の色がある。何でも良い、まずは彼の非難に対抗しなければ、と口を開いたところで、横からもうひとりの軍師が声を挟ませた。
「何って、官兵衛殿。見てわからない? 水浴だよ水浴」
「その様なことを尋ねているわけではない」
「その様なこと、だよ。此処で石田三成が水浴びをしていた。ね、そうでしょう?」
にこり、とまるで邪気のない笑みを浮かべながら、半兵衛が言い切る。秀吉の頭脳ともいえる立場の片割れだ。その裏に隠された意図があるだろうが、現段階では片鱗すら見えてこない。彼の一見、親切とも擁護ともとれる立ち振る舞いを訝しく思いながらも、三成は唯、黙って首肯するのみだ。
秀吉様の子が懐妊なされた。その第一報は巨大な大阪の城全域を震撼させるほどの影響を与え、皆浮き足立っていた。誰もが言祝ぐ最中、清正は一人、鍛錬を行っていた。彼の心中としては、非常に不安定だった。実の父の様に接してくれる秀吉が、長く望んだ末に授かった子なのだ。だから、自分も同様に祝福しなければと思う一方で、ねねの寂しそうな顔が―実際、目の当たりにしたわけではないが―浮かんでくるのだ。今回、懐妊したのは側室である淀君なのだ。これがねねであったら、心の底から祝うことが出来た……と、堂々巡りを繰り返す。
そんなやるせない思いを、息と共に吐き出していた、その時であった。
「祝事の最中に、辛気臭い息を吐くな」
耳に慣れた、平坦な声。声の方を向けば、思い浮かんだとおりの人物が、変らない無表情でそこにいた。
「三成、か?」
彼にしては珍しく、書物を抱えるわけでもなく、ただそこに存在した。武具を持たない様子から、鍛錬に来た様でもない。
しかも、最近は顔を合わせるたびに手酷く抱いていた。それを三成は拒否していたし、そんな彼を追い詰めるようにしていた自分を快くは思っていないはずだった。
陽の光が指す中で彼に会うのは久方ぶりであり、気安く話しかけるそれはまるで彼が裏切る前の垣根無く話の出来ていた頃に酷似していた。いつもと勝手が違う様を訝しく思う気持ちはある。しかし、それを問う前に当の彼から呆れたような物言いが飛んできた。
「何をそんなに辛気臭い顔をしている」
三成が指すのは今、城を賑わせている祝辞のことであろう。それを指摘されたから、清正は自分の中を占めていたなんともいえない気持ちを思い出してしまう。すると覿面に顔が曇ったようで、三成が再度、顔を顰めた。
「そのような鬱陶しい顔はやめろ。秀吉様にもそんな顔で会うつもりか」
「……お前は、何とも思わないのか」
そう口にすれど、彼の返す言葉は想像がついた。事実、彼は現状を祝辞と指した。笑みを刷いているわけではないが、清正が感じている類の憂いを、彼は一切持ちえぬようであった。
「何とは、何だ」
「言わずとも悟れ、馬鹿」
「聞かずともわかる言の葉の意味を尋ねた真意こそ悟れ、馬鹿」
そのように返す三成の口はいつもより饒舌だ。